炎上ツイート、バズワードに追従しすぎて、置いてけぼりになった自分を満たす処方箋。
オトナになってしまうと、小中学校みたいに利害関係抜きで 同じ人達と何年も同じ時間を過ごすことは極めて稀。独身だろうが子持ちだろうが、みんな毎日自分やすぐ近くの人のことで手一杯。
それはわたしだってそう。
だから、見ず知らずの語り手の声や文章に 気持ちを傾けようと思ったら、すれ違った一瞬でガツン‼と相手に何かしらのインパクトを残さないと次に繋がらない。
いくら相手が口で、「伝わったよ」と言ったところで、実際に「うん」と言わせたり、 違う人に語り継がれたり、 実際に行動に移されていなかったとすれば、あなたが表現したことは"無"に等しい。
いや、もっと大きな目で見れば、 たとえ後から語り継がれることがなくても 出会った時点でお互いの人生の一ページに確かに影響はされている。 たとえ、共感してもらえなくても、印象に残すことだって多いと思います。
Google先生が神となった現在、見えない自分が置いてけぼりになっていませんか?
Google先生やFacebook先生などが ネット社会を牛耳るようなり、 誰かに何かを残したい 心を掴みたいと言った、個々人のわがまますぎる欲望がうずまく。 コンテンツビジネスはまだまだこれからの時代、よりそれらは強く意識されるでしょう。
一個人が何かを伝えようと思い立った時、ネットは確実に必要なもの。SEOやバズワードを気にかけること自体は悪ではありません。
ですが、見てもらう表現ばかりになってしまうと、相手から見えないところでたくさん感じ取っているあなた自身の繊細な感覚が置いてけぼりにもなりかねません。
「相手にYESと言ってもらわなければ」
「Google先生に引っかからなければ意味がない」
商品の購入やアクセス数、SEOに気に入られなければ、あなたの存在すら無に等しい、 と思わせてしまうくらい蔓延った競争に、自分の感覚を無視していません?
人目を惹きつけるためには、表現されるまでの時間を深める
見える形も大事ですが、人目を惹きつけるためにはその分、表現されないところで自分を深めているはずです。 なのに、 Google先生やコミュニティの教祖様の目を 気にした記事やツイートのおかげで 成果の可視化や数値化を正義となってしまっている虚しさ。
いいじゃない、 好きにぴーちく鳴いて、好きな時に身体が喜ぶおいしいご飯が食べれて、愛する人と満ちみちた時間を過ごせれば、本当はそれで幸せなはずよ。え、これが処方箋だなんて、ショボすぎる?
ううん、しょうもない時間を蔑ろにする人ほど、しょうもないことなんてないわ。強い言葉で書かないと無駄だ、って思っているだなんて、どれだけ心がパサパサなのかしらね。刺すのではなく、そっと届けるだって、印象に残ると思いますけどね。
さ、私はお紅茶でも頂こうかしら。